ネットビジネス情報は海原の波

毎日、沢山の情報が生まれ消えています。どんな情報がいいのか?

誰もが言う、誰に対しても誠実で謙虚

誰もが言う、誰に対しても誠実で謙虚



 
以下は現代ビジネスの記事なのですが、
3ページになっています。1ページ目がカズ
オ・イシグロ氏のおじいさんのこと。2ペー
ジ目はお父さんとお母さんのこと、3ページ
は奥さんのローナさんのこととなっていま
す。


おじいさんについては伊藤忠商事伊藤忠
兵衛、豊田佐吉、豊田紡織廠、豊田章一郎
上海にあった日本の学校東亜同文書院、な
どの言葉が出てきます。おじいさんも普通
の人ではなかったようです。


カズオ・イシグロ氏のお父さんは非常にイ
ンテリの方だったということです。長崎気
象台からイギリスの研究所へ招かれ、イギ
リスへ移住。お母さんは美人で教師だった
のですが、被爆しました。お母さんから戦
争体験を聞かされたということです。カズ
オ・イシグロ氏が小説を書き始めたのは
26~27才頃、日本への記憶を書いたよう
です。


カズオ・イシグロ氏がローナさんと結婚し
たのは1986年、小説を書いて読んでもら
うと「初めからやり直しなさい」と言う
こともあるようです。奥さんには色々と
意見を聞くようです。


この記事にもあります、「誰に対しても
誠実で謙虚」。本当に恐れ入ります。ぜ
ひ、以下をお読みください。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 

カズオ・イシグロの親族が明かした「一雄くんのこと」

現代ビジネス 10/24(火) 14:00配信

 
 
 一夜にしてその名は世界中に知れ渡った。長崎生まれの日系イギリス人作家は、どんな家に生まれ、どんな環境で育てられたのか。親戚や恩師の証言を元に、ノーベル賞作家のルーツを追った。
 
トヨタ家との縁

 長崎駅から車で10分。長崎市内を走る路面電車の新中川町電停から入り組んだ細い路地を100mほど進むと、3階建ての洋風の屋敷がある。ここにカズオ・イシグロ氏(62歳)が5歳まで過ごした生家が、かつてあった。

 この付近は長崎らしく、坂の途中に一軒家や集合住宅が密集して立ち並ぶ住宅街だ。往時は桜の名所として知られ、いまも料亭がいくつか残っている。

 「明治、大正の時代は富裕層の別荘地でした。いまはだいぶ景観が変わったけど、その名残で大きな屋敷がポツポツと建っています」(近隣住民)

 先ごろ、ノーベル文学賞を受賞したイシグロ氏は、日本人の両親のもと、1954年に長崎県で生まれた。家族で5歳のときに渡英し、'83年にイギリス国籍を取得する。自身は英語しか話せないが、受賞のインタビューでも「私の一部は日本人なのです」と語っている。

 イシグロ氏はどんな家庭に育ったのか――。

 日本名は石黒一雄。石黒家は代々由緒ある名家だったと語るのは、カズオ・イシグロ氏のいとこにあたる藤原新一さん(71歳)だ。

 「私の母の弟の長男が一雄くんになります。一雄くんのお父さんには二人の姉がいて、2番目が私の母になります。

 我々の祖父、昌明さんは滋賀県大津市の出身。戦前、中国に渡り、上海にあった東亜同文書院という高等教育機関を卒業しています。この学校は、ほぼ国策学校で授業料も無料。秀才が集まる学校で、各県から一人ほどしか入学できないほどレベルが高かったそうです。

 卒業後、祖父は現地の伊藤忠商事に入社しました。仕事ぶりも優秀で、上海支店の支店長まで務めました。ところが、会社で労働争議が起きた責任をとって退社を余儀なくされたんです。そんな祖父を救ってくれたのが、創業者の伊藤忠兵衛さんでした。

 祖父の働きを高く評価していた忠兵衛さんは直々に、豊田佐吉さんに頼み込んで、祖父は上海の豊田紡織廠(トヨタ紡織の前身)の取締役として迎えられたそうです」

 イシグロ氏の祖父が長崎に戻ってきたのは終戦の直前だった。なぜ帰国後、長崎を選んだのか、その経緯は不明だというが、ここでイシグロ氏は生まれ育った。

 「一雄くんの家には、よく遊びに行かせてもらったので鮮明に覚えています。塀こそレンガ造りでしたが、純和風の邸宅で、武家屋敷のようでした。3階建てなんですが、中2階があってそこに一雄くんはよく居ました。

 祖父はとにかく怖くて、怒られた記憶しかありません。日本に戻って来てからは仕事をしていなかったはずですが、生活ぶりは優雅でした。トヨタ関連の株の配当だけで生活していたんじゃないかな。

 いまでもよく覚えているのは祖父の葬儀でのことです。伊藤忠兵衛さんから、読み終えるのに10分もかかる弔文が届いていました。祖父と忠兵衛さんは盟友だったみたいです。

 祖父は豊田家との関係も深く、葬儀の際に使用した車は、すべて長崎のトヨタが提供していた。豊田家の方が長崎に来ると、石黒家が出迎えるという間柄でした。

 うちの母が豊田章一郎さん(トヨタ自動車名誉会長)のことを『しょうちゃん』と呼んでいて驚いたことがあります」(藤原さん)

◇◇  ◇◇

p2
作品に活きた母の被爆体験

 イシグロ氏の父である鎮雄氏もまた、ひとかどの人物だった。九州工業大学を卒業後、長崎海洋気象台に入り、海洋学者として活躍。1960年、イシグロ氏が5歳のときにイギリス政府から国立海洋学研究所に招致され、一家で渡英した。
藤原さんが続ける。

 「『あびき現象』(長崎湾で発生する副振動)研究の第一人者でした。点字のタイプライターを製作し、エリザベス女王に拝謁したこともあるそうです。'94年には『日本語からはじめる科学・技術英文の書き方』という著書も出されている。

 私にとってはやさしいおじさんという印象です。夏休みの宿題を手伝ってもらったり、天気予報の機械の作り方を教えてくれたこともあります。非常にインテリな方でした。

 鎮雄さんは男前で日本人離れした顔立ちをしていました。目の色素が薄くて鼻も高く、一見、外国人に見えるほどでした。

 一雄くんも純日本人っぽくない顔立ちですが、あれはお父さん譲りだと思います。一雄くんのお母さんである静子さんも美人でした。長崎市内で教師をされていたそうです。

 お母さんは長崎で被爆されています。10年ほど前だったでしょうか、長崎在外の被爆手帳をもらうために来日されました。

 一雄くんは処女作『遠い山なみの光』で原爆についても書いていますが、小さいころ、お母さんから戦争体験をよく聞かされていたようです」

「イギリス人」になる決意

 イシグロ氏が5歳まで通っていた長崎市の「桜ヶ丘幼稚園」(現在は閉園)で、年少組の担任だった田中皓子さん(91歳)は、一雄少年のことを克明に覚えている。

 「当時は年長と年少の2クラス。石黒くんが年少クラスにいた1年間、担当しました。上のクラスにはお姉ちゃんもいました。うるさい盛りの年ごろですが、石黒くんはそういう面がいっさいなかった。物静かで、落ち着いていて、我々としてはまったく手がかからない子供でした。

 ほかの子供とはちょっと違いましたね。いま考えれば、周囲を黙って観察して、頭の中でいろいろ考えていたのかもしれません。

 幼稚園では、よく絵本を読んでいたと思います。まだ小さかったこともあり、友達と騒いで遊ぶタイプではありませんでした。お父さんの転勤でイギリスに行く際、お母さんと一緒に退園手続きに来たときも、とても落ち着いていたことを覚えています。

 なぜこんなに覚えているかというと、あの子は服装からして他の子とは違っていました。いとこの藤原さんもそうですが、制服にはアイロンがきちんとかけられていて、汚れひとつありませんでした。

 また、着こなしもセンスが良いというか、家がしっかりしているんだなと感じました。この幼稚園は裕福な子弟が多かったのですが、育ちの良さは際立っていましたね」

 若いころのイシグロ氏は作家ではなく、ミュージシャンを目指していた。本人いわく、レコード会社にデモテープを送ったりもしたという。

 〈10代のころからアメリカのアーティスト、特にボブ・ディランニール・ヤングが好きで、彼らのような音楽を演奏していました〉(『COURRiER Japon』2006年11月2日号より)

 イシグロ氏が音楽に興味を持ったのも、両親の影響があったと前出の藤原さんは言う。

 「石黒家にはいつも音楽がかかっていました。父の鎮雄さんはピアノやチェロを弾いていたし、母の静子さんもピアノを弾いていた。あの時代にチェロを弾いていた人はほとんどいませんでした。ちなみに、長崎の気象台には父の鎮雄さんが作曲した歌が残されているそうです。

 一雄くんの一家がイギリスへ渡ったとき、家財道具を残していったのですが、その中には貴重なレコードもあったらしく、鎮雄さんから『テープに録音して送ってほしい』と頼まれたことを覚えています」

 幼いころのイシグロ氏は、いつかは日本に帰るものだと考えていたという。イシグロ作品の愛読者でイシグロ氏と対談を行ったこともある、作家で生物学者の福岡伸一氏が言う。

 「これはイシグロさんに直接聞いた話ですが、彼は毎年『来年になったら日本に帰る』と両親に言われていたそうなんです。それが中学生くらいになって、もうこれは日本には帰らないんだなとわかってきて、イギリス人として生きることを決意するのです」

 イシグロ氏が、小説を書き出したのは26~27歳のころ。きっかけは、くしくも日本への記憶だった。

 〈自分の中にある日本の記憶を永久保存したいと考えたのです。それと同時に、私は日本についての小説を書き終わるまで、日本には戻らないと決意しました。日本に行くと、自分の脳裏にある日本の記憶に干渉をすると思ったからです〉(『文學界』2006年8月号より)

 イシグロ氏が日本に戻ったのは'89年。5歳で渡英して以来、約30年が経っていた。

 〈長崎はずっと想像していたものに近かった。すべての丘を思い出すことができたし、昔いた古い家にも行きました。幼稚園への行き方も覚えていました〉(同前)

 前出の幼稚園時代の恩師である田中さんが、当時を懐かしむ。

 「'89年に来日されたとき、奥さんのローナさんを伴って幼稚園に来てくれました。『昔と同じ制服だ』と喜んでくれてね。ほとんど話す時間はありませんでしたが、忘れずに覚えていてくれたことは嬉しかったです。もう一度会いたいですね」

◇◇  ◇◇

p3
妻からの「ダメ出し」

 イシグロ氏が、スコットランド出身のローナさんと結婚したのは'86年。以来、イシグロ氏のそばには常にローナさんの姿があった。ノーベル賞作家となったイシグロ氏だが、いまでも妻には頭があがらないという。過去のインタビューには、それを表すエピソードがある。

 〈最新作の『忘れられた巨人』を書き始めたときのこと。40~50ページくらい書いたところで、妻のローナに読んでもらったんです。すると「これは全然ダメ。初めからやり直さないと」とけんもほろろに言われました〉(『an・an』2015年7月22日号より)

 並の作家でも、「素人に何がわかる」と怒り出しても不思議ではない話である。ましてやイシグロ氏は、すでにこの時点で世界的に有名な作家として知られていた。

 ところがイシグロ氏は驚くべき行動に出る。なんと妻の言う通りに小説を一から書き直したのだ。

 〈妻のアドバイス通り、最初の草稿を全部捨てて書き始めると、前とはまったく違うアプローチになったんです。この本に限らず、妻にはいろいろ意見を聞くのですが、本作では特に、妻の影響は大きかったですね〉(同前)

 誰に対しても誠実で謙虚――。イシグロ氏を知る人物は、皆そう口を揃える。

 最後にいとこの藤原さんは親しみを込めて、こう語る。

 「長崎にいる姻族は私だけになってしまいました。一雄くんがノーベル賞候補になってから、かれこれ10年くらい発表の前に取材を受けていたのですが、表に出ることはありませんでした。それが今回このような結果になって自分のことのように嬉しく思います。一雄くん本当におめでとう」

 長崎に生まれた一雄くんは、名実ともに「世界のカズオ・イシグロ」となった。

 「週刊現代」2017年10月28日号より

 
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ボブ・ディランノーベル文学賞関連の記
事、よかったら覗いてみてください。
以下からどうぞ。

http://tamawasa3nobelpr.seesaa.net/index-3.html
ボブ・ディラン 4p

3年前のマララさんの記事

http://tamawasa3nobelpr.seesaa.net/

ベルタおばさん 1p
マララさん   15p となっています。 
 
よかったら覗いてみて
 
 
終りまでお読み頂き、ありがとうございました
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(以下をいいねと、お願いします。いつも感謝しています)

★高機能マルチドメイン

  レンタルサーバー【シックスコア】

 

ショップ名:エックスサーバー株式会社

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇