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19世紀後半の露土戦争 クリミア半島や黒海の、おっとり話【6】

19世紀後半の露土戦争 クリミア半島黒海の、おっとり話【6】


こんにちは。

竹の葉っぱが落葉していますね。
地面からタケノコが勢いよく伸びています。

なので、竹がタケノコに栄養を与えているように見ます。
葉が分解するのは数ヶ月はかかると思うのですが。

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オスマン帝国ロシア帝国の11番目の出会い。1877年~1878年

この露土戦争の前の状況は、1875年からバルカン半島各地で、
オスマン帝国への反乱がおきました。

ブルガリアではオスマン側の虐殺があったようです。

虐殺が明らかになって、イギリスはオスマン帝国を支援できなくなりました。

1877年、ロシアはスラブ系民族の独立の支援を名目に、
ルーマニア方向からブルガリアオスマン帝国軍を攻撃しました。

黒海の東方ではのオスマンの要塞カルスを陥落させました。

ロシア帝国軍は、ブルガリアからオスマン帝国
首都イスタンブールへ向かって進軍しました。

サン・ステファノ条約が結ばれ、オスマン帝国バルカン半島
国々の独立や自治権の付与を認めることになり、

黒海北岸はほとんどロシアの支配下や、影響下となりました。
黒海東岸では、アルメニアがロシアの領地となりました。

このロシア帝国の進出を警戒したイギリス、オーストリア
反対し、ドイツ帝国の宰相ビスマルクの仲介で

ベルリン条約が結ばれました。

大筋ですが、ベルリン条約でブルガリア地域は3分割され、
一部はオスマン帝国に返されることになり、
黒海東岸地域でも一部かオスマン側へ返還されました。

占領した土地を返還することになり、ロシア帝国内では、
アレクサンドル2世への不満が出ました。

前のクリミア戦争後からですが、ポーランドはアレクサンドル2世への
抵抗は強く、1881年アレクサンドル2世はポーランド人に暗殺されました。
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ロシアはクリミア戦争の敗戦から東方への進出を計画する
ようになりなりました。

日本とロシア帝国の関係では、1875年千島樺太交換条約を
締結しました。日本側は榎本武揚が交渉に当たりました。

東アジアの情勢は、
1858年に天津条約が清と列強国で締結されました。
     これにロシアも参加しています。

1860年には英仏連合軍は北京を占領して、北京条約が
     締結されますが、ロシアが調停役となりました。

この結果、ロシア帝国ウラジオストクを中心とした
沿海州地域を領土としました。

1885年日本と清の間で天津条約が結ばれています。
1894年日本と清が朝鮮半島に出兵して日清戦争が始まります。

1895年日本と清の間で下関条約が締結されたのですが、フランス、
     ドイツ、ロシアの三国干渉が始まりました。
     日本が返還した旅順をロシアは租借して軍港にしました。

1902年日本とイギリスが日英同盟が締結。
1904年日本とロシア帝国との間で日露戦争でおこりました。
     とうとう日本もロシア帝国と出会うことになってしまったわけです。

1905年アメリカのポーツマスで日露の条約が結ばれ、
     日露戦争は終結しました。ロシアの皇帝はニコライ2世


  終わりまでお読みいただき、ありがとうございました。
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