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クリミア半島や黒海の、おっとり話【2】

クリミア半島黒海の、おっとり話【2】

ロシアとトルコの戦争は露土戦争と呼ばれます。
人種名はスラブ人とタタール人となります。

オスマン帝国の勢力が大きく、領地バルカン半島では
さざなみが有名なドナウ川よりも北に及んでいたようです。

モスクワでは、ロシアの勢力が力をつけてきて、
大国となりました。この二つの帝国が出会うのは
運命的だったでしょう。

最初の出会いは、1568年~1570年です。
日本では織田信長が活躍していた時期です。

黒海の南側の大国オスマン帝国が、クリミア半島
王国クリミア・ハンの内政に乗じて支配下にして、

ロシア商人などを迫害したのが戦争開戦の
理由になったようです。戦争の場所はカスピ海

北岸の地域だったようです。ロシア・ツァーリ国の勝利。

戦後のコンスタンチノープル条約でロシアはヴォルガ川
通行権を獲得しました。

(ロシアが帝国であると自称した時代はロシア・ツァーリ国
と呼ぶようです。18世紀には周りの勢力もロシア帝国
あることを認めました。)
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2番目の出会い。1676年~1681年、オスマン帝国
領地拡大戦略に対抗してロシアが応戦。

ウクライナを北から南へ流れるドニエプル川
地域が戦場になった模様です。
コサックの名前が出てきます。

最終的にオスマン帝国の勝利となり、
戦後のバフチサライ条約で国境を
ドニエプル川にすることになりました。
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3番目の出会い。1686年~1700年の長い
露土戦争は複雑です。

1683年にキリスト教国のオーストリアポーランド
ベネチア神聖同盟を結んで、イスラム教
オスマン帝国と戦争を始めました。

この時期、ロシアはオスマン帝国と結んで神聖同盟
戦うと表明していたようです。

状況はロシアとポーランドは1654年~1667年の間
戦争して、ウクライナの東半分を獲得していました。

この土地は戦後のアンドルソヴォの和約では20年後に
ポーランドへ返還することになっていました。

キリスト教国の神聖同盟側は、ロシアが
オスマン帝国側につくと困るので、

ポーランドウクライナの東半分をロシア領と
認めることでロシアは神聖同盟に参加する

ことになり、3年遅れて1686年からロシアは
オスマン帝国を相手に戦いをはじめました。

この露土戦争は、クリミア、アゾフ海の周辺が
戦場となり、ロシア・ツァーリの勝利でした。

この戦後のコンスタンチノープル条約では、アゾフ地域の
ロシアへの割譲、30年間の停戦が決まりました。

この条約締結後、ロシアは北のスェーデンと戦争を始めました。

アゾフ海の東端にあるオスマン帝国のアゾフ要塞の
攻撃を指揮したロシア・ツァーリのピョートル1世は
後の1721年にロシア帝国の皇帝となります。
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日本では江戸時代であり、大体ですが赤穂浪士
討ち入りのころです。ロシアとオスマン帝国の戦争が
日本に何か関係があるかというと、何も関係ないですね。

ウクライナはロシアとオスマン帝国の間、
ロシアとポーランドの間で全くいいこと無しの
状態だったと思われます。

  終わりまでお読みいただき、ありがとうございました。
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